頭蓋骨縫合早期癒合症と診断されまして。。

頭蓋骨縫合早期癒合症と診断されまして。。

2016年4月に生まれた可愛い息子が突然謎の病名を告げられました。。同じように診断されたママ・パパのために…。

【子どもを連れて郊外へ疎開した翌朝】 2020/8/6 追記

8/6

今日は広島をルーツに持つ僕にとっては
とっても大切な日…。
絶対忘れてはいけない日です。

トマトくんよりちょっとお兄ちゃんの裕くん
そのパパ啓三さん、ママの満枝さんが犠牲に。

 平和な世の中になりますように…。

 

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登場人物

手前左から
 トマトくんの曾祖母ちゃんのお祖父ちゃん(文中:父)
 トマトくんの曾祖母ちゃんのお祖母ちゃん(文中:母)
 満枝(文中:兄嫁)、裕(文中:孫・六歳の息子とか)

後列
 啓三(文中:兄)、手記を書いたおばさん。


親戚のおばさんがその家族を看取った時の話です。
ちょっと読みにくいですがぜひ…。

 

私は昭和二十年四月、東京都杉並区から、義父一人が住んでいる広島市愛宕(あたご)町へ子ども二人(三歳と二歳)を連れて疎開しました。しかし、毎日毎晩の空襲で、防空壕のない家は大変恐ろしく、もう少し田舎へ疎開をしたいと思い、義理の祖母が一人住んでいる母の実家(古市町)へ再疎開することにしました。八月四日、借りた大八車にわずかな荷物と子どもを積んで、義父と共に二里(約八キロメートル)の道のりを五時間かけて、やっと夕方、目的の古市東野北の庄の家に着きました。


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(文中:兄嫁、兄)

 次の朝、大八車を返すために、またまた二人の子どもを大八車に乗せ、愛宕町へ行きました。夕方になっていたこともあり、義父は私の実家(小町(こまち))へ泊まっていくよう言ってくれました。しかし、結婚して近所の方々とも疎遠になってしまいましたし、万一の時助けてもらえないと困ると思い、下の子をおんぶし、上の子の手を引いて電車で古市へ帰りました。家に着いたら九時。それから夕食を食べ、やっと寝ることができました。

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(文中:兄嫁、甥、母)

 

次の朝、八月六日。朝食を済ませて後片付けをしている時に、ドーンと大きな音がして南の空にきのこ雲がムクムクと高く上がりました。雨戸は吹き飛んで倒れ、ふすまも倒れ、戸棚の上に置いてあったラジオも吹き飛ばされて聞こえなくなりました。初めは、古市の一つ手前の駅、祇園にある軍需工場が爆撃されたのかと思いました。が、そのうち、何でも広島市内に大型のすごい爆弾が落とされたという噂が流れてきました。皆どこに避難すればよいのか分かりません。周りは田んぼで、もちろん防空壕などはありません。当時太田川の沿岸は竹(たけ)藪(やぶ)が続いていました。村の人たちの「竹藪に逃げろ!」と言う声で、夏布団を頭からかぶって出掛けようとした時です。黒い雨が降り出したのです。

 

B29も飛ばす、爆撃もない。雨が止んだら逃げようと言いながらも、ただ南の空のきのこ雲を心配しながら眺めていました。そのうち南の空に大きな赤い火の手が上がり、一日中燃え続けておりました。私は広島市内の小町に住んでいる兄たちが心配でしたが、どうすることもできず一夜を過ごしました。

 

大型の新しい爆弾が落とされたと分かったのは、次の日になってです。そして、それが原子爆弾と分かったのはその後でした。八月六日の原爆投下時、母はたまたま食料調達のために温品(ぬくしな)の姉の家に行っており、幸い被爆から免れました。その母は小町の兄一家のことが気にかかるのでどうしても行ってみるということで、八月七日に一人で小町へ帰って行きました。そこで見たのは、そっくり残っているのは門柱とコンクリートの壁だけ、家は跡形もなく焼け、周りは焼け野原と化し、中国電


力の建物だけが不気味に残って、広島中が遠く見渡せ、大きな樹木が所々に枯れ木のようになって不気味に突っ立っている風景だったそうです。

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(文中:中国電力の建物 目の前には路面電車の線路。
    兄夫婦はここを通ったと思われる

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(文中:日赤病院)

呆然と焼け跡を見ているときに、たまたま近所の方が通りかかられ、兄たちは日赤病院にいることを教えてくれました。大急ぎで駆け付けたところ、病院の前の庭には怪我をしたり、火傷をしたたくさんの人が座ったり、寝転がったりしていました。その中から、やっと兄たちを見つけ出し、母は兄夫婦と孫の亡骸を抱いて、夜遅くやっとの思いで温品に運びました。その時は、まだ兄も兄嫁も落ち着いてしっかりしており、原爆投下された時の様子を次のようにボツボツ話し出したと、母から聞きました。

 

 

「六日の朝、空襲警報は解除になったので、私は物置へ行こうと通路に出、六歳の息子はトイレに入っていました。その時原爆が投下され、一瞬のうちに家は西側に倒れ、東側の廊下にいた夫は足が梁(はり)の下敷きになってしまいました。私はたまたま無傷で、やっと夫の体を引きずり出し、二人でトイレの中にいる息子を引き出しました。とにかく家から離れないと火に囲まれる恐れがあると思い、三十メートル西にある広島一中の門の脇に大きな防火用水槽があったのを思い出し、その中へひとまず三人で浸かっていました。火の手が近づいてくると、頭から水をかぶりながら火の難を避けていました。夕方、ようやく火が落ち着きましたが、ここにいては助けてもらえないと思い、私は子どもを抱き、夫は痛い足を引きずりながらやっと中電の前の電車道まで行き、転がっていたところを軍隊に収容され、千田町の日赤病院まで連れて行かれ、病院の庭で一晩明かしました。そこで、息子はかわいそうに息を引き取りました」。こう義姉は話していたそうです。

 

八月八日。B29はまだ飛んでいるので、市内に出て行くのは恐ろしいけれど、私は兄たちがどうしているか心配で心配で、どうしようもありませんでした。温品に住んでいる姉の家に行けば何か分かるかもしれないと思い、ともかく温品へ行くことにしました。二人の子どもを義父の手製の簡単な小さな荷車に乗せ、古市東野から太田川を渡し舟で戸坂(へさか)側の岸に着き、土手を登り、上の道まで荷車と子どもを運び上げ、温品へ通じる農道をもくもくと歩いたものです。途中、広島市内方面からソロリソロリと顔や手足をやけどした人たちが吉田や甲立(こうたち)の方へ向けて歩いているのに出会いました。顔は二倍くらいに腫れ上がり、両手は心臓より上に挙げて、おばけのような格好をして、黙ってゆっくりゆっくり苦しそうに歩いていく姿は、今も目に焼き付いております。途中の国民学校で炊き出しをしていま続けていました。

 

私たちは、四時間以上かかってやっと姉の家に着きました。そこに兄、兄嫁と母が収容されており、ちょっと安心しました。しかし、甥の姿はありませんでした。八月七日に亡くなった甥の亡骸は、なんとか元気だった兄嫁、母そして温品の姉たちとで、村の人たちに手伝ってもらって、既に荼毘(だび)に付されていました。もちろん、お寺さんもいない火葬でした。この頃になって兄は足の激痛がひどくなり、苦しんでいました。会社の医師が見舞ってくれ、痛み止めの注射をしてくれていました。そんな兄夫婦が気になりながらも私たちは、まだまだ空襲があるかもしれないので早々に温品の家を引き引き揚げ、また太田川を渡し舟に乗って渡り、古市にやっとの思いで帰りました。

 

それから三日後、温品に出掛けてみると、兄嫁が泣きながら、昨晩兄が亡くなったと話してくれました。そして、それから四日後には兄嫁も亡くなりました。この時にはつくづく戦争、原子爆弾を恨みました。温品の山で兄たちを自分の手で荼毘に付さねばならなかった無念は、生涯忘れることはないでしょう。結局、兄一家三人は、強い放射能を浴びたための死とのことでした。

 

八月十五日、私は終戦のラジオを聞きながら、空襲がなくなり、安心して外を歩けるようになって良かったと、安堵しましたが、敗戦の悔しさや悲しさに涙が出ました。この戦争で三人の身内を亡くした母のやるせない気持ちを思うと共に、敗戦後に不安を感じながらも、命のあったことをとてもうれしく思ったのも事実です。私たちはこの後、小町の家のこと、母のことなどが気になりながら、次の年の春、後ろ髪を引かれる思いで広島を後にし、夫の待つ東京へと戻って行きました。その後は、福山に住んでいた次兄が自分の仕事の合間を見ては温品に駆け付け、亡くなった兄一家の後始末、そして母の面倒をしっかりと見てくれました。・・・八十四歳

 

被爆60周年記念証言集「平和を祈る人たちへ」より